どうして音楽を選んだのか
久しぶりに舞台に立ちます。
今回の宗次ホールでの公演が許され、幸運にも公演ができることとなりました。
▶︎公演についてのブログ
夏以降まで中止のお知らせがあったものも多く、7月に公演ができるのも半信半疑でした。 ホール独自の判断で公演をするかどうかをギリギリまで待って決めてくださっていたお陰・・ほとんど奇跡です。
久しぶりに舞台に立つ前に、沢山綴っておきたい学びがあったんです。今日は最後の最後にたどり着いた自分の問いと答えを綴ります。
どうして音楽を選んだのか
沢山の方ににご迷惑をかけることになりながら、何故自分が音楽の道を選び歩んだのか…
私がバイオリンの練習を嫌がらずにするようになったのは(「好き」より先に、嫌がらず、が本音です)物心つかない時です。3歳からピアノを、4歳からヴァイオリンを始めました。どうしてそんなに嫌がらずに練習したのか、本当に記憶にないんです。
三度を教えてもらい、その響きがでた時に嬉しくて、練習時間が増えた記憶がありますが、それは多分小学校2年くらいだったと思います。分数の楽器でも、それなりの響きだと思いました。
そのうち練習そのものが好きになりました。
そのうちに良い出会いが重なるようになりました。
音楽の本場ドイツってどんなものだろう、と楽器に自信があるわけでもないのに、本物を知らないといけないと思うがままに留学をしました。
その後も、やめる選択肢は山ほどあったはずなのに、音楽から離れる事ができませんでした。
それは執着か何かだったのかもしれない・・
かけた時間を捨てる事ができなかった、やめてしまうと果たせないという思いや、諦める方が怖いから、などの気持ちがなくはなかったか・・ 特に成長期の時に抱いた憧れの気持ちや自分の成長意欲は、もしかしたら執着のようにさせてた事があるかもしれない。 その気持ちを今更発見した時はとても悲しかったですが、歩んでいればそういうこともあると思います。
でも、やっぱり4歳とか5歳で何故か自分が嫌にならなかった理由があるんです。バイオリンを続けた理由がある。それは、
自分が思う「自分」という認識以外のところで、「自分」が音楽を好きだとか嫌いだとか分かるより前に、価値があるものだと見極めていた。のかな、と思います。
今のところの答えはそれです。
そう思うと、自分の思う「自分」はちっぽけなもので、音楽選んだ得体の知れない思いには意味があるはず。もしかしたら、自分じゃないもの(祖先の気持ち、前世、環境)が選んだ可能性もある。ならば、その宿命に沿って委ねてみようと思うことにしました。
このコロナ禍で本番がなくなって、どんどんキャンセルが続き、このままで良いのかな、自分の存在意義はと考えさせられたことはもちろんです。何で自分が音楽を選ぶことになったのかなんて問いは普段なら生まれていませんでした。
どうして音楽をやっているのか、何のための音楽か・・そういう理由はいつも考えておりますが、(活動していくと、考えざるをえないです)でも、その自分の起源まで遡ったのは初めてでした。お恥ずかしながら。
思い新たに、これからも反省しながらやってみることにいたしました。
そうすると、少しだけ、音楽の感じ方が変わりました。 特に演奏する時に変わっている気がします。
「自分」が喜ぶよりも、音楽を価値のあるものだと見極めた向こうの「自分」が喜ぶように、弾けているのか。こういうものを奏でたいのか、本当のところはどうなんだろうっていう質問を自分の奥底にあるものに問いかけます。
そうするとすごく弾きやすくなった自分がいる。
音楽は生き方だというけれど、人生と音楽は繋がっているんだと痛感しています。
7月の公演は名古屋でのこの公演のみです。私個人的に発見したものを一人でもたくさんの方と、共有したいなと思っています。
これからの予定
も、そんなにありません。
しばらく、ゆっくり活動いたします。
正直、コロナからの休暇明けで、現在は低速稼働を満喫しています。
今は雨が降ってきたので、雨の音を聴きながら、、もう少し練習してみます。
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